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アロハシャツ藍染めの歴史柿渋染の歴史京友禅の歴史金襴歴史和柄の持つ意味
  アロハシャツ
アロハシャツ

アロハシャツはハワイなどの日系移民の歴史によって生まれたアイテムといわれています。
元々は農業で働く日系移民の方々が着ていた着物地から発案されたものです。
その課程には、日系人の方々が過酷な労働により、着物はあまりにも不向きで、着る機会を失った着物は人々の知恵により、オープン襟の作業服や、普段着のシャツとして生まれ変わったという歴史があります。

それから80年近くの歴史の中で、多くのアロハシャツメーカーが生まれました。

1920年代にはハワイはアメリカ合衆国と併合。
1930年代にはハワイアンシャツを代表するような会社が生まれ、量産品へと変わっていきます。
エラリー・チャンが「アロハシャツ」を商標登録したのもこの時代です。
1940年代にはレーヨンの素材が、1960年代にはポリエステルが登場するなど、80年の歴史の中で、さまざまなタイプやメーカーが生まれました。

 

京都ゑり源では、これらのアロハシャツのルーツに見られる着物とアロハシャツの関連を受け止め、現代風にアレンジした着物アロハシャツ、天然素材を用いた草木染めアロハシャツなど、バラエティーに富んだ商品を、今後も新しい可能性を模索しながらの展開を見据えています。

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藍染めの歴史
藍染め

藍染めの歴史は古く、エジプトのテーベ遺跡で発掘された紀元前2000年頃のミイラに、藍で染めた麻布が巻かれていました。その後、藍染めはインド・中国へと広がっていきます。

インドでは、インド原産の青色染材としてインジカンと呼ぶようになり、これが藍の代名詞「インディゴ」となりました。

中国では、紀元前一世紀頃から筍子の「青は之を藍に取りて、藍よりも青し」との名言もあります。また、当初藍は薬用にも用いられ、漢方薬としても使われていました。

アメリカでは藍の染色布は蛇などの爬虫類が嫌うとされていて、200年前からアメリカのカウボーイたちが藍の葉をジーンズの染色に用いていました。

それでは、藍はいつごろ日本に入ってきたのか?現存する最古の藍染品は、奈良の法隆寺(607年)、および正倉院(756年)に藍の組織として残っていることから、おそらく遣隋使(607〜614年)か遣唐使(630〜894年)が持ち帰ったものだとされています。

その後、平安時代・室町時代と様々な藍染めが行われ、江戸時代には綿の栽培が普及し、藍が木綿に良く染め着くことから、一気に庶民の色として発達しました。また、毒虫が藍を嫌うとされていたため、礼服の八割が藍染め品となりました。

しかし、1900年代に入り、安価なインド藍(インディゴ)や人造藍の輸入により、日本の天然藍は衰退の一途をたどりましたが、天然藍のもつ「風合い」や「深みのある色」は人造藍で出すのは難しく、伝統的な本藍染めの要望は依然として根強く残っており、多くの紺屋たちによって引き継がれています。

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柿渋染めの歴史
柿渋染め

1.柿渋染め

中国で4〜5世紀頃にはすでに存在していたと推測されています。

日本では鎌倉時代の「平家物語」には「柿の衣」が、「源平盛衰記」には「カキノキモノ」が記載されています。

また山伏の法衣には柿渋で染めた柿衣が多く用いられ、柿衣は山中の瘴気をさける力があるとされていました。

京都ではかつて禅宗の僧侶の麻製の黒衣は柿渋で染められていました。

 

2.柿渋の特性

防水効果、防腐効果、耐久力強化、などの特性があります。

生地を丈夫にしてくれるため古くから庶民生活の間でも布、竹、紙、壁紙、ロープ、家具、船、雨具、団扇、漆器などの下地としてもしようされてきました。民間薬としてやけど、しもやけ、高血圧下剤、ヘビ・ムカデなどのタンパク毒の中和などにも利用されてきました。

現在でも塗料、染料のほか一部は化粧品素材、発酵食品、徐タンパク剤、吸着剤などとして利用されています。

 

3.柿渋染めの色目について

柿渋はその染めるたびに色目を出す成分「柿渋タンニン」の量が微妙に異なります。

弊店でもこの成分を科学染料で調整をせず、天然の柿渋液を使用していますのでこの柿渋タンニンの量によって染めるたびに多少の色の誤差があるものと思います。

また太陽の光の紫外線、空気中の空気による酸化、湿度や温度によって多少発色が変わってきます。四季折々の気候によって染め上がりが変わるのも柿渋染めの楽しみと魅力でもあります。

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京友禅の歴史
京友禅

友禅とは模様を染めるための技術のことをいいます。友禅染めは江戸時代元禄時代に、京都東山知恩院山内に住んでいた、人気の扇絵師の宮崎友禅斎によって創作された、鮮やかで多彩な柄模様と染色技法が基と言われています。友禅斎は洒落た遊び心のある扇絵を描くことが評判で、その絵柄は友禅斎模様と呼ばれました。そして扇だけでなく小袖などの柄も手掛けるようになり、身近な草花を中心に描いた革新的な染模様を発案しました。この友禅斎模様の染め物がやがて友禅染めと呼ばれるようになったのです。
友禅斎が創始した友禅染めの特徴は、染料に糊を混ぜることにより生地に色が滲んだり混ざり合うのを防ぎ、絹の上に絵画のように自由に模様が描けることです。このように友禅を確立した友禅斎ですが、その実像を裏付ける資料があまりにも少なく、生没年や師承、友禅染創案の過程等になるとはっきりせず謎のままです。 現代の京友禅は、そのおよそ二十種類にもおよぶ制作工程をすべて手作業で施す《手描友禅》と、数十枚もの型紙と写糊などを用いて制作する《型友禅》の「友禅染」のことを意味しています。

京友禅の製作工程は、分業になっており、京都には専門業者がたくさんあります。この分業生産体制が高い技術を支え、すぐれた製品づくりにつながっているのです。現在、京友禅呉服は、わが国における染呉服の代表的な種類であり、全国の染呉服生産量 の約80%を占めています。

加賀友禅と京友禅の違いは、その模様構成と色彩にあるといわれています。細部の表現の違いとしては、模様の外側から内側に向かってボカシてあるのが加賀友禅、その逆が京友禅とされています。また、その他には虫食いなどがあげられますが、これらはあくまで伝統を受け継いだ基本的な違いであり、現在では加賀調の京友禅もあり、一般の方には判別がつきにくくなっています。
全体的な違いとしては、その発達の背景となった金沢と京都の文化・需要客の違いから来る特徴があげられます。京都の公家・豪商向けの絢爛なもの、金沢の武家好みの落ち着いた品のある美しさに大別できます。

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金襴歴史
金襴歴史 金襴は近世初期に明より伝来し、高級織物の名産地、京都・西陣を主産地に織り継がれてきました。その名前が示すとおり、金箔・銀箔や金糸・銀糸に色糸を交えて緯糸にし、紋様が浮き出るように織った紋織物のひとつです。 また、緻密な紋様で色数が多いほど高級な金襴と言われています。
更に金襴は、風合、紋様、用途に依る裂地巾などにより、 いろんな種類が生まれました。
色のとり方、織り方などにより微妙な紋様を巧妙に表現することができます。
用途としては主に、装束・袈裟・人形裂地、能衣装・和装小物などに用いられます。 1200年の王城の地、京都の歴史とともに歩んできたはるかな伝統を守りながら、新しい技術や紋様創りに積極的に取り組み、その技と意気を生かして織りあげられた金らん(金襴)は、西陣織独特の雅やかさに華麗な風格をたたえて、伝承の技の美意識を語ります。もともと中国から伝来したといわれていますが、 室町・桃山時代に 多く輸入され、名物裂地(きじ)として大名、茶人に珍重されました。
日本では、安土桃山時代に堺で中国の織工が織を伝えたといわれています。
京都西陣にて、織り物が織られはじめるようになったのは 十六世紀末頃といわれ
現在のきものの帯より長い歴史を持っています。
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